1.

あなたが女性だったら愛し合うことも出来るのに…。
どうして男性の姿をして僕の前に現れたんですか?エドワードさん。
…あの夕陽の中で初めて見たエドワードさんの後姿はマルグリーテに似ていた。


僕がロケット研究の新進気鋭ヘルマン・オーベルトさんの研究所に特別奨学生として国から派遣されたのは夏の終わりだった。彼の書いた『惑星空間へのロケット』『宇宙旅行への道』とい
う本は、さきの世界大戦で敗戦したドイツの少年達を勇気付けるものだった。当然、僕も熱狂した。
その研究施設には特別な才能を持った天才児たちが国中から集められていた。敗戦後のドイツは失意のどん底だったからロケットを打ち上げるということは国威掲揚のためだったのかもし
れない。それでも軍隊に入るには年齢が若すぎ、両親も亡くなっていた僕が自活するには学力を伸ばすことぐらいしか出来ることがなかったから喜んでその道を進もうと思った。みごとに金
髪・碧眼の少年少女だけが集められた。国の意識が小さくなっているせいなのか、他民族を排斥しようとする思想が広がりつつあることをその時の僕はまだ知らなかったけれど。

その最初の日。
僕はその人に出会った。金髪を頭の高いところでひとつに束ねていて、それが歩くたびに左右に優しげに揺れていた。あれは…姉さん!?
「マルグリーテ!生きていたんだね!?」
駆け寄った僕がその人の右手を強く掴むと、その人はゆっくりと振り返った。
金色の、猫のような瞳で僕の顔をじっと見上げている。
「何か用?」
と、ぶっきらぼうな低い声で答える。
「僕だよ!アルフォンスだ!」
「…」
僕の名前を聞いたその人は、さあっ…と顔色を変えた。やっぱりそうだ、マルグリーテだ。

ふたつ年上のマルグリーテは天才少女と呼ばれたほどの頭脳の持ち主で16才で大学にと望まれていた。その道は、戦争で断たれてしまったけれど。
「姉さん、僕のこと覚えてる?あの空襲の時に父さん達と一緒に死んでしまったと思ってたんだ。良かった…生きていてくれて」
「姉さん?俺が、あんたの?」
「男言葉は止めなよ。綺麗な顔に似合わない。ああ…あの時の美しいままだよ、姉さん!」
僕はその人の手を両手で握り締めた。ふっと、その人は小さく笑いながら振り払うでもなく、しばらく僕のなすがままにさせてくれていた。
「苦労したんだね、姉さん。右手が硬くなってる」
「右手は義手だからな。感極まっているところ悪いんだけど…俺は正真正銘の男だよ。お前の姉さんじゃない」
「へ?…オトコ」
どこが男だ?ちっこくて、女みたいな髪型に柔和な顔立ちなのに。
僕が混乱しているとその人は右手の手袋を外して僕に見せた。あ…
「…義手にゴムの人工皮膚をかぶせた代物だよ。オヤジが少し科学に詳しくてさ、神経の電気信号を変換しておおまかな動きには対応できる」
「カエルの解剖とかで見たようなこと?」
「原理は似たようなもんかな。でもさ、カエルって。例えにもなんか言いようがあるだろ?まるで俺が豆粒ドチビって言われてるようなもんじゃないか。あ…嫌なこと思い出した」
ぶっ。豆粒ドチビだって。そうか…人違いなのか。だけど、よく似ている。

「あの。僕より年上ですよね?」
「こっちきてから17才になった」
「僕は15才です」
「…ふたつ、下か。同じなんだな」
「何がです?あ、そうだ。名前教えてください」
「エドワード・エルリック」
「ホントだ。男の人なんですね、エドワードさん。それに姉が亡くなってもう5年になるんだなぁ…その頃のままの姿なはずもないのに。でも偶然なのかな…?姉は最初の子供だったし、両親
は男の子を望んでいたんです。それで用意していた名前がエドワードだったそうです。それを僕に名付けないのが不思議なところなんだけど」

僕はドッペルゲンガーのことを思い浮かべていた。それは死を招く影だという。だけど死ぬのは自分の分身を見た本人であって、僕が姉に似た人を見たからといって死ぬわけじゃない。

エドワードさんは慌てたように僕に尋ねた。
「お前の名字は!?まさか、エルリックじゃないよな?」
「違いますよ。ハイデリヒです。アルフォンス・ハイデリヒ」

エドワードさんは小さく僕の名前を口の中でつぶやいていた。
そんなふうに僕とエドワードさんはお互いの名前に絡んだ、今はもう逢えない大切な人との縁が取り持つ、もつれた糸に巻き込まれたのだった。

2.

門を通り抜ける時にいっそ、記憶喪失にしてくれたらよかったのに。

俺は元の世界のままの記憶を持っていて、アルと旅した3年間や、大佐と別れた時のアイツの寂しげな微笑とか全部覚えている。トランクひとつだけでミュンヘンの街を歩きながら白昼夢を
見て階段から転げ落ちたこともある。石畳の街並みはどこかセントラルを思い出させて、何度もデジャブを感じた。
目の前を通り過ぎる景色は未知のモノなのに、押し寄せる記憶が俺を発狂寸前にまで突き落とす。そんなミュンヘンの底なし沼から絶対脱出出来ないと思っていた。アルフォンスに逢うまでは…。

「どうだった?オーベルト氏は」
「若くて才能のあるいい人だった。ロケット工学はあっちの世界に帰る唯一の方法だと思うんだ。だからやってみる」
「そうか」
ホーエンハイムがポットから注いだ紅茶はいい香りがした。腐りかけた肉体を持つホーエンハイムは様々な香料を身に纏う。だから、そばにいると息が詰まる。
「アルフォンスに逢ったよ。オヤジ」
「向こうにはお前の記憶はないだろう?」
「俺に似た姉さんが居たんだって。その人に間違えられてマルグリーテと呼ばれたよ。空襲で亡くなったとか言ってた」
「マルグリーテか。デンマークの国の花、マーガレットが由来だろう。可憐な白い花だな、パパ好みの女性だよ」
「はいはい。ドイツ語に慣れるために読んだアンゼルセン物語ってデンマークの童話だっけ?」
「そうだ。それより、下手すると運命の恋に落ちそうな出会いだったな。ははは」

恋か。
そばにアルが居ないことがこんなに苦しいことだって。俺は知らなかった。
大佐に似た人には不思議と逢うことがない。目を閉じる。
恋する気持ちなら俺はたぶん大佐に感じていた。
自分勝手で包容力があって気まぐれに償いという名の愛情を俺に向ける、俺の情人。
あれ?それってオヤジの形容詞にも、ぴったりな気がする。
…俺ってファザコンだったのか?あ、痛、タタタ…。

「オヤジもアルフォンスの死んだ父親に似ているのかもしれないな。俺一人だけならまだしも、不審に思われる。悪いけどオヤジには逢わせられない」
「いいよ。別に」
「冷たいね。相変わらず」

そういう言い方をしてもオヤジは俺を責めない。ただ門を超えてきてしまった息子を哀れんだ瞳で見つめるだけだ。そして俺もまた、そんなオヤジが居なければミュンヘンで3日と生きていられなかった。

3.

…「エドワードさん!待ってください」
「次の講義もでるのか?アルフォンス」
「もちろんです。時間がもったいない。エドワードさんだってほとんど全部の講義に出てるじゃないですか」
「俺は…急いでるから」
「僕もです!」
並んでキャンパスを歩く歩幅が競い合うように早足になる。
「なんでっ?」
「ロケットって、速いからっ」
「それで何がしたいんだよっ。お前もどこか、帰りたいところがあるのか?」
「帰る…?そうかもしれません。ドイツが世界で一番になれるように、貢献したいんですっ」
アルフォンスの強い語気にエドワードは脚を止める。
「だって。…国が強かったら姉さんは死なずに済んだから」
「お前が焦ったってしょうがないだろ?」
「妄想だって笑ってくれてもいい…頭の中で声がするんです。早く、速く、もっと急げって」
そこまで一息に大声を出したアルフォンスはゴボンっとひとつ咳をした。
「顔色悪いぞ、アルフォンス」
「僕は、どうなってもいいんです」
エドワードには自分同様生き急ぐアルフォンスの真意が分からなかった。

「…で、あるからして、液体燃料ロケットを実現させるに必要なものは強靭なエンジンなのであります」

生き生きとした瞳でペンを走らせ講義を受ける青年達は、後のドイツ宇宙旅行協会を結成した中核となっていった。
エドワードとアルフォンスも必死に座学をこなし実験道具をそろえ着々とオーベルトの思想の実践へ入っていった。

エドワードは筒型の手のひらに載るほどの小さなロケットの試作品を地上に据え付ける。
「飛ばしてみようぜ」
「ハンダいい加減にすると爆発しますよ」
アルフォンスが溶接面を気にしていた。
「いいのいいの。どうせ落ちてくる時壊れるんだから。こんなの練成だったら簡単なのになぁ…!」
「レンセイって?」
「錬金術さ」
「そんなの一世紀も前にインチキだって言われて廃れたじゃないですか。地中世界だけですよ、物質と圧力だけが金属を作り上げることが出来るんです。人間の力じゃ無理です」
「無理なもんか。俺は優秀な錬金術…師…」
「?」
「…なんでもねぇ」
導火線に火を点けるとパン!と、音を立ててロケットが青い宙に昇っていく…。

「そんな!人が実際ロケットに乗って宇宙に行くのにまだ何十年もかかるなんて!」

オーベルトの私室にレポートを提出しに来たアルフォンスは廊下でエドワードの叫び声を聞いた。悪いと思いながらもアルフォンスはちらりと窓から中を覗き込む。オーベルトの胸元を両手
で掴んで、エドワードは泣いていた。

アルフォンスはいたたまれなくてその場を駆け去る。

(…あの人には秘密がある。どうしても帰りたいところって、この世なんですか?エドワードさん)

4.

エドワードさんの自宅に電話をかけた。
あの日以来、もう10日も講義を休んでいるからだった。
泣き顔がとても悲しそうで。悲痛な叫び声が暫く耳から離れなかった。

ジリリリリン…
…『はい』
低い声が答えた。あれ?エドワードさんじゃない。
「僕、オーベルトさんのところで一緒に勉強しているアルフォンス・ハイデリヒと言います」
…『ああ。君がアルフォンス君。私はホーエンハイム。エドワードの父親だ。年はいくつなんだい?』
「15です。あの、エドワードさんは居ますか?」
…『出掛けてるが…。研究所に行かなくなった理由かな。君が知りたいのは』
「はい」
…『悪いけど、君に話してもしょうがないことなんだ』
「ロケットで人類が宇宙に行けるのが技術上、ずっと先だからですか?」
…『エドワードが行きたいのは宇宙じゃないんだ』
「もしかして、それって、この世のどこにも無い場所なんじゃないですか?」
…『君…』
「あ!すいませんっ」
電話を切られる!と思ったけれど続けてこんなことを話してくれた。
…『今日は気晴らしにシュバンガウの街に行くと言っていた』
「あ、ノイシュヴァンシュタイン城ですね!僕も行ってみます」

シュバンガウの街から馬車に乗って40分ほどでその城に着く。今はバイエルン政府のものになっているが戦いのためではなく、つい近年道楽のために建てられた美しい城だった。
森の中の坂道をゆっくりと馬車に揺られていると、どうしてここまでエドワードさんを追いかけているのか自分の気持ちまで揺さぶられてくる気がした。11月のこと、霧が深い。

投げやりでいい加減だけど、エドワードさんの一生懸命な横顔はとても好きだと思った。

僕は姉さんが好きだった。
それを心の底から喚起させたのは、マルグリーテの死、そのものだったけれど。
姉さんが死んだ、姉さんが…死んだ。
それを知った時の喪失感は、もう誰にも埋められないと思った。
なのに、姉さんは戻ってきてしまった。僕の前に以前と同じ姿をして現れた。
僕はエドワードさんが好きだ。僕は姉さんが好きだ。それに男女の違いって関係ないんじゃないだろうか?
僕の身体はもうすぐ滅びる。
エドワードさんがあの世から僕を迎えに来た死神だって構わない…。

「着きましたよ」
そう御者に言われて馬車から降りると壮大な城が目の前にそびえ立っていた。
「そこの門から自由に入っていいよ。今日はバイエルン政府の解放日なんだ」
夕方も頃合を見て何度か回ってくるから鈴の音が聞こえたらここに来るんだよと、馬車はもと来た道を戻っていった。

『ノイシュヴァンシュタイン城は、バイエルン王ルードヴィッヒ2世が「引き篭もり」のために1869年から築城を開始した中世風のお城です。国防のための城では無く、ただ、ルードヴィッヒ2世
の趣味のためのお城でした』

迷宮の中を僕は歩く。
聖杯の騎士ローエングリンを気取った重厚な調度品、壁画、装飾品に眩暈がしそうだ。
天気の悪いせいだろうか、ほとんど人に行き当たらない。
薄暗い廊下の先の、大きな扉の前に立つ。それはまるで門のような装飾を施されていた。

強く押すとギギ…と、嫌な音をたてて戸が開く。あ…居た。

エドワードさんは大広間の真ん中に仰向けになって、右手を宙に伸ばしていた。
「エドワードさん!」
僕が呼びかけるとエドワードさんは上半身を起こして僕を眺めた。
「アルフォンス…」
気がつくと僕は。
駆け出してエドワードさんに抱きついて、床の上を一緒に転がっていた。

5.

「天井さ、円形をしているだろ?練成陣みたいだなぁって思ってさ。構築式をずっと考えていた」

俺はアルフォンスとふたりで床に寝転がり天井を眺めた。なんでここに居るのかとか、なんで見つけたことに感極まって俺に抱きつくのかとか、どうでもいい気がした。こいつがアルフォンスで
あるならそんなことは簡単なことだ。

「俺より大きいなりして、なんだよ。ちょっと逢わないくらいで寂しくなったのか?」
「なりました」
「俺は別に宇宙に行きたかったわけじゃないんだ」
「分かってます。エドワードさんがあの世から来た人だってことも。僕を迎えに来た死神だってことも」
「あの世?…死神?…あははははっ!」
「笑わないでください。殺されてもいい、悲壮な決意でここに来たんですから」
「はは。悪りぃ悪りぃ」

アルフォンスはギュ…っと目を閉じ俺の胸元に顔を埋めている。
「好きです…エドワードさん…」
ぽんぽんとアルフォンスの肩を手のひらで叩く俺の手が宙で止まる。
俺にとってお前は「ふたり」居るけれど、お前にとって俺はたったひとりの俺なんだ。俺に似たアルフォンスの姉亡き後は。あまりにも残酷な仕打ちじゃないだろうか?

「お前さ、病気なんだろ?」
「肺がもう元には戻らないんです」
「俺に関わりあうより、女の子と恋愛しておけよ」
「時間があまり無いのに、悲しませるだけじゃないですか。それに僕の心には…」
姉のマルグリーテ?それとも俺が?

俺はかつて大佐を慰める白い花だった。軍事国家の枠の中で半ば近親相姦的に発生した行き場の無い恋愛だった。マルグリーテ、白いマーガレット。何かが俺の中で弾けた。

俺は跳ね起きて、アルフォンスの唇を…唇で強く塞いだ。
「肺病が…うつり…ま…す…んーーーー!!」
「いいんだ。俺はお前の死神だから。俺もお前を愛している、アルフォンス」

Freude!!生の歓びよ!!

お前とこの世に暮らしている限り俺は元の世界に戻れない。
だけど、それはMiserabelでは決して無いのだ。
死に行く者への祈りが愛でなくて、他になにがあろうか?


ずいぶん後になってふたりのアルフォンスがひとりになり、ようやく俺は気がついた。

アルフォンス、お前の中の砂時計は、こちらの世界とあちらの世界を繋いでいたことに。

ende
Freude
AUTHOR ももさん